大阪と通天閣

大阪のシンボルである通天閣は1903年(明治36年)に開催された第5回内国勧業博覧会の会場跡地に、パリのエッフェル塔と凱旋門を模した初代通天閣が1912年(明治45年)7月3日にルナパークと共に建設された。建設費用は約9万7,000円で、当為の入場料は10銭。300尺(91m)という触れ込みで、その当時東洋一の高さを誇っていた通天閣は、ルナパークとロープウェーで結ばれており、人々に親しまれていた。大阪で2番目(非貨物専用としては最初)の昇降機が設置され評判となった。現在の二代目と同じように塔側面に巨大ネオン広告があった時期があり(1920年に導入)、当時の広告は「ライオン歯磨」であった。 なお通天閣の電灯工事は当時大阪電灯に勤務していた、後に松下電器産業創業者の松下幸之助氏(当時17歳)が配線、電燈の取り付けに配線工として参加している。吉本興業に買収された後、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に直下にあった映画館・大橋座の火災で通天閣の脚部が加熱により強度不足となる。そのため、鉄材を軍需資材として大阪府に「献納」するという名目で1943年2月13日から塔は解体され、初代通天閣は姿を消した。

その後、通天閣復活を願う、地元民の働きかけで、現在の二代目通天閣がつくられたのです。その後高さ的には非常に低い建造物なのですが、昨今は、観光スポットとして、注目されているのです。